優しさを透かす小さな世界

 次の日、クラゲは学校に来なかった。先生にクラゲのことを聞いても曖昧に濁すだけ。外は朝から雨が降っている。空から暗く冷たい雨がひっきりなしに教室の窓を叩いていた。
 六時間目のホームルームになって、先生は神妙な顔で、クラゲはもうこの学校には来ない、と言った。転校するらしい。
 嘘ばっかり。これで、もうクラゲと会えないなんて、悪い冗談やめてよ。そう心の中で毒ついてみたけど、どうやら本当のことらしかった。ふと、隣の席に目を向ける。当然クラゲは居ないのだけれど、瞼の裏にこびりついた、昨日のクラゲと目が合った気がした。酷すぎるぐらい優しい無表情の目。クラゲの針は、まだ、あたしの心に深く突き刺さったままだ。

「本人が、みんなにさよならを言うのが寂しいから、と言っていたので、私も今まで黙っていました。本当は、昨日お別れ会をするつもりだったんですけどね。海月君、昨日も学校には来たんですけど、みんなに会うのが辛いって、すぐに帰ってしまって……」

 おめでたいことに、昨日の朝のことは全く気づいていないようだった。先生は白いハンカチを取り出して目元を押さえている。その先生の一つひとつの仕草がひどく滑稽で白々しい。

「そこで、この時間のホームルームは、皆さんの大切なお友達に最後のお別れの手紙を書く時間にしたいと思います。皆さんからの手紙は、私が責任を持って届けます」

 一瞬の沈黙。その沈黙を破ったのは、男子の下品な声だった。

「先生! そんなことよりも、席替えがしたいです!」

 クラスを包む笑い声。賛成、と煽る声。先生の困惑した表情。やがて、席替えコールが、手拍子と一緒に始まった。先生の「やめなさい」というヒステリックな声。空っぽの隣の席。
 うんと振ったコーラの缶を開けたみたいに、急激に怒りがこみ上げてきた。それを押さえるために、自分の机を思い切り叩いて立ち上がった。さっきまでの騒がしかった音がそれと同時に全部消えて、ぴんと張り詰めた糸のような静寂が教室を包む。

「せんせー。あたし、超気分悪いんで、保健室行ってきます」

 ちくちくした視線を全身に感じながら、教室を出るまで、どの視線とも目を合わさなかった。目を合わせる価値も無いと思った。

 ***

 外は雨が降っていた。クラゲに会いたかった。クラゲの家も知らないのに、あたしは、傘を差して学校を飛び出した。クラゲの居る場所。心当たりは一つしかない。もしかしたら居ないかもしれない。でも、あたしの足は止まることなく動いていた。
 雨足は朝よりもずっと強くなっている。空は低く、町全体を灰色に染め上げていた。時間がない。あたしは雨の中、走った。水溜りを無視して走っているせいで靴下はびしょぬれ。新品のスニーカーも泥だらけだ。傘もあまり効果がなくて、体は雨に打たれて冷たい。それなのに、吐く息だけは熱がこもって、汗がくすぐるように頬を伝って落ちていく。息が苦しい。まるで、水の中で溺れている気分だった。
 目的地の場所に近づいてくると、自然と雨足は弱くなっていく。公園が見えてくると、ほとんど雨は止んできた。傘を閉じて公園に入ると、急に眩しくなって、思わず目を細めた。
 雨上がりの日差しが公園に降り注ぐ。余計なものをすべて洗い流したような、綺麗な空気だからだろうか。公園にあるすべり台もベンチも自動販売機も、はっきりした輪郭を持っていた。公園の柵に寄り添うシロツメグサや、ベンチの後ろにひっそりと佇むタンポポや、すべり台の横に並んだナズナ。雨水を浴びたばかりの草花は、澄んだ空気を彩るように、きらきら輝いているように見える。そんな公園のすべり台のてっぺんに、白いパーカーを着た少年が白い傘を差して立っていた。

「クラゲ!」
「と、透子ちゃん……?」

 彼は振り返ってあたしの顔を見るなり、驚いたように黒く澄んだ瞳をぱちくりさせた。それは、あたしが初めてクラゲに話しかけたときの、クラゲの表情そのままだった。あたしは、ゾウの足の階段を駆け上がり、彼の隣に行った。風は、いつの日かクラゲと来た時と同じように、やさしく吹き込み、私の髪をふわふわと撫でていった。夕方の此処から見る景色も綺麗だったけど、雨上がりの景色もすごく綺麗だ。塵や埃をすべて地面に落としてくれたお陰で、一つ一つの輪郭がはっきり見える。町は、光りが乾ききっていない水滴を反射させて白くきらめいていた。

「どうしたの? それに、びしょ濡れじゃん。風邪引いちゃうよ」

 彼は傘を閉じて近くに投げれば、白いパーカーを脱いで、あたしにかけてくれた。冷えきった体に温かさが染みこむ。彼の変わらない優しさに、また涙が出そうになったけど、必死に堪えた。

「何で転校すんの?」
「お父さん、新しい仕事を見つけたんだって。社長さんもすごくいい人でね、一生懸命働けば借金も全部返せるかもしれないんだって」
「何で言ってくれなかったの?」
「何でって……」

 彼は視線を泳がせて、バツが悪そうに、もごもごと口を動かした。

「急に決まったことだったから。それに僕、透子ちゃんにひどいことしちゃったし……」
「うん。昨日のクラゲのパンチ、ものすごく痛かった」

 あたしが唇を尖がらせてそう言うと、彼は悲しそうに眉を下げて小さく笑った。

「ごめんね。あの時は、ああするしか思いつかなかったの。あそこまでしなきゃ、僕が転校した後、透子ちゃんが僕の代わりになっちゃうんじゃないかって思ったから」

 クラゲは、ぎゅっと唇を噛んだ。

「……僕、馬鹿だよね。優しくしてくれる透子ちゃんに甘えてばっかで、透子ちゃんが僕と同じことされちゃうなんて考えてなかった。透子ちゃんは全然悪くなくて、むしろ、僕を助けてくれてたのに。僕が幸せになるかわりに、透子ちゃんが不幸せになるなんて駄目だ」
「駄目じゃないでしょ」

 あたしは自分の意思で勝手にやっているだけだ。クラゲを助けたのだってそう。それであたしが不幸になるなら、それは自業自得だし、クラゲは何も悪くない。クラゲは自分のことを大切にしとけば、それでいい。なのに、どうして、あたしなんかの幸せを優先するんだろう。
 そんなことを考えていると、彼は何故か恥ずかしそうな甘い顔になった。

「駄目だよ。僕、透子ちゃんのこと大好きだから」

 思わず出そうとしていた言葉が喉元で詰まった。真正面でそんなことを言われるのに慣れてないせいか、頬が赤らむのを感じて、さっと視線を逸らす。クラゲは、そんなあたしを他所に、はにかみながら言葉を紡ぎ続ける。

「透子ちゃんは、可愛いし、お洒落だし、堂々としてるし、すごく優しいし、それに、何よりね」

 ゆっくり視線を戻すと、不純物を全て取り除いた、黒くて純粋な瞳と目が合った。

「透子ちゃんは、透き通ってて、真っ直ぐで、綺麗な心を持ってる。透子ちゃんなら、僕以外にも友達、いっぱい出来るよ」

 クラゲの言葉が、胸の中をぎゅっと締め付けた。あたしの心はクラゲに比べたら、全然綺麗じゃない。

「だからね、僕のことなんか忘れてさ、いい友達を、たくさんつくってね。僕は全然平気だから」

 クラゲの水分を多く含んだ瞳をじっと見返しながら、苛立ちも哀しみも寂しさも全部が入り混じった感情が心の中で疼いた。
 クラゲは人に優しすぎる。この世界はクラゲが思っているほど綺麗じゃないし、優しくもない。そんなふうに無防備な優しさで自分の世界に立ち向かうから、いつも自分ばかりが傷つくんだ。その優しさを、もっと自分に向けることが出来たら、彼はどんなに楽になるだろう。
 そう思ったけど、クラゲには、それが出来ないのかもしれない。出来ないから、傷ついた心を必死に隠して笑い続ける。クラゲは、あたしよりもずっと不器用だ。でも、その不器用な愛情は、泣きたくなるほど美しいと思った。
 あたしは、いつもの笑顔を浮かべるクラゲの頬を優しくつねる。

「ねえクラゲ。あたしに対してまで、そんな笑顔見せないで。クラゲがカッコつけたって、全然カッコよくない」
「……だってね、笑ってないと泣いちゃいそうなんだ。泣いたら、もっとカッコ悪いじゃん」

 そう言いながら大粒の涙が右目からも左目からもぽろぽろ零れ落ち、笑いながら泣く彼の姿を、あたしは、ただただ見つめていた。

「ありがとう、透子ちゃん」

 雨上がりの透き通った淡い水色の空に綺麗な虹が架かっている。その景色に、彼の涙はひどく似合っていた。
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